トークライブ@つくば vol.2

新世紀の自由
新たな世紀に向けてつくばから自由を語る
現代思想からアニメまで、新世紀の批評家・東浩紀が語る 『21世紀カルチャーの行方?』

2000.10.21sat  at  AKUAKU
start pm6:00(open pm5:00)
2000円(1drink付)
TEL=0298-51-4147

予約はこちらakuaku@midi.co.jp

東浩紀ホームページはこちら hiroki azuma website

トークライブを前に『東浩紀を読む!』読書会が
決定しました。
10/1(日)AKUAKUにて午前10時30分より(参加無料)
参加御希望の方はメールにてお知らせ下さい。


アズマヒロキ

1971年東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。同大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学術博士。現在、日本学術振興会特別研究員。専攻は哲学及び表象文化論。
93年、文芸批評「ソルジェニーツィン試論−確率の手触り−」(『批評空間』)でデビュー。
以後、文芸批評のみならず、現代美術批評、アニメ評論、現代思想論、情報社会論と幅広い仕事を手がける。
99年、『存在論的、郵便的、ジャック・デリダについて』(新潮社)で第21回サントリー学芸賞受賞。
著書に『郵便的不安たち』(朝日新聞社)『不過視なものの世界』(朝日新聞社から近刊)


トークライブを前に東さんへの事前インタビューを行いました。 
語り手:東 浩紀 
聞き手:碩 典一(トークライブ@つくばスタッフ)
編集:岸田夏枝(トークライブ@つくばスタッフ)

 

碩:今回、21世紀カルチャーの行方ということで、個人的には文学・美術に関して
今後の行方をどうお考えなのか知りたいのですが、特に、「日本」ということをどう
分析していくのか、どうでしょうか?

東:日本の分析ねえ……、例えば純文学だけが日本的なものではないわけで、そうで
すねえ……。

碩:それは例えば東さんの関心であればアニメであったり、SFであったり……

東:ほかにも携帯電話やウォークマンのデザインなんて、日本は異様な方向で発達し
ていますね。あれは欧米のデザインとはまったく別のコンセプトで動いている。ああ
いうのが、僕のイメージする日本ですよ。

碩:それを例えばどういう風に歴史の中に位置づけていくのかという感じのお話が伺
えたらと。例えばなぜ欧米とは違って日本ではそうなったのかと。

東:だからまず、日本性を考えるときには図像的な感覚が見逃せないでしょうね。僕
がオタク文化に関心を寄せるのもそういう文脈だけど、しかしそれ以前に、いままで
の日本論はそもそも構造が単純すぎるんです。だいたい西洋と日本が対立していて、
西洋では大文字の主体があるけれども、日本では大文字の主体がないという話。それ
で、日本は大文字の主体がないから分裂病的だとか、母系的だとか、そういう簡単な
対立図式だったわけです。
でもこれでは、まずアジアの問題が出てこないでしょう。例えばヨーロッパには大文
字の父がいる、日本にいない、そこまではいいとしても、じゃあアジアはどうなん
だ。
そうすると今度は、中国や韓国には父系制があるけれど日本はないという話になるん
ですね。でも、中国や韓国とヨーロッパは違うでしょう。というか、普通に見れば中
国や韓国の方が日本に近いじゃん。でも日本の知識人って、中国はむしろヨーロッパ
に近いとか平気で言うんですね。日本を特殊化するためにね。それが今までの日本論
ですよ。でも僕は、そういう考え方はもうできないと思うんです。
アジアの問題は、ここ10年間で急に存在感を増してきた。80年代までは、アジア
が自立した市場として文化的影響力をもっていると思われていなかった。けれどその
状況はいまはまったく変わったわけで、90年代には中国でも韓国でもポストモダン
化が進んでいる。でも、中国のポストモダンと韓国のポストモダンと日本のポストモ
ダンではそれぞれ違った展開をするわけで、今後はそういう部分を細かく見ていかな
いといけないと思うんです。
80年代の日本のポストモダニストは、日本は十分にモダン化していないから一番ポ
ストモダン化する国だ、みたいなことを平気で言っていた。けれど、もうその論理は
通用しない。十分にモダン化していないと言ったら、例えばロシアもそうだし、韓国
もそうだし中国もそうなんですね。そして冷戦構造の崩壊後は、それぞれがそれぞれ
特異なポストモダン化の過程を経てきたわけで、そういう相対的な視点からポストモ
ダン論も立てなきゃいけない。日本論も同じで、自分たちだけが大文字の主体を欠い
ている、子どもっぽい、なんて日本特殊論はもう止めるべきです。それでそのひとつ
の契機として、オタク文化のアジア化/国際化が使えるのでがないか、というのが最
近の僕の考えですね。
とにかく、今まで日本論・日本人論はつねに欠如態なんですよ。「何々がない」とい
うことで規定している。例えばオリジナリティがないとか。なるほど、まあ、日本の
オリジナリティがないのは結構だけど、そこで面白いのはほかのアジア諸国はもっと
ないことになるわけね。例えば、韓国は日本人のものもさらに真似ているからすご
い、
アニメも村上春樹もすぐ真似る、というわけ。でもそんなら、韓国のほうがわれわれ
よりよっぽどラジカルじゃん(笑)。ところが他方で日本人は、いやいや、韓国はそ
もそもキリスト教徒が多いし、もともと朱子学の伝統が強いし、結局はわれわれほど
軽やかにポストモダン化できない、とか平気で言うわけね。この二つは矛盾している
んだけど、そういうことに日本の知識人はまったく鈍感なわけ。
結局、「日本だけが特殊ですごい」って繰り返しているだけですよ。
というわけで、今後はアジア内での微妙な差異が、ヨーロッパとの大きな差異以上に、
日本論・日本人論を組み立てていくうえで重要になると思います。ただ、これは単に
僕の個人的な意見だけど、ある世代以上の人はこの問題を想像すらできないのかもし
れない。むろん例外もあるけど、僕の知る範囲ではそう感じることが多い。政治的な
テーマとしてのアジアは分かる、あと社会学的なテーマというか、民俗的なテーマと
してのアジアも分かるけど、文化的なテーマとしてのアジアっていうのは、ほとんど
想像すらできないんじゃないのかなあ。そんな感じがしますよ。

碩:それを工夫していくというか……

東:そうですね、例えば蓮實重彦文体ってあるでしょう。あれは僕の考えでは、フラ
ンス語の条件法をあるやり方で翻訳する、新しい翻訳文体なんですけどね。それで、
ああいう助動詞が肥大化した日本語の文体は欧米では通用しない、とかかつて柄谷行
人は言っていたわけですよ。それは確かにそうかもしれないですけどね、しかしかと
いって、蓮實文体の問題が日本特殊の話だとは言えない。
例えば最近では、韓国でもデリダとか訳されています。そうしたら当然、韓国でも蓮
實文体に近いものがあると思うんですよ。韓国語と日本語は、文法体系がとても似て
ますからね。そうすると、もはや蓮實の問題は日本だけのものとは言えない。つま
り、
条件法がある言語から条件法のない言語に翻訳された時のひとつの反応として、相対
化して見ることができる。
その線で言うと、さらに、デリダの文章が中国語に訳されるとどうなるのかにも関心
があります。中国語では時制の表現が欧米とも日本語とも違うので、おそらく、漢字
がいっぱい並ぶのではないかと思うのですけどね。条件法を翻訳するために。
いままでの哲学者にはそういう視点がほとんどないんで、すごく簡単な二分法になっ
ていたわけですよ。例えば、デリダのフランス語はフランス語圏でしか通用しない、
同じように蓮實文体は日本でしか通用しない。対してドゥルーズの文章は国際的だ、
同じように柄谷行人や浅田彰の断言文体は国際的だ、というようにね。でもまあ、こ
ういう杜撰な話は僕、耐えられないんで……。そんな簡単なものじゃないんですよ
ね、
言葉って。そういう単純さから脱出し、欧米で通用する/日本国内で通用するといっ
た対立ではない、もっと相対化した視点を導入するためにも、アジアという問題は今
後ますます重要なのではないかと思うんですよ。

碩:それで、具体的には何か?

東:例えば前々から予告している時枝誠記論ですが、時枝が日本語論を構想したのは
韓国でですね。ソウルで源氏物語を教えていたんですよ。で、時枝の著書を読めば分
かりますけど、彼の中心的な関心は助動詞に向いているんですね。それははなぜかと
言うと、韓国語にも日本語にきわめて近い助詞や助動詞がある。「が」は「ガ」って
言うんですよ。しかし当然、韓国語の助詞や助動詞の機能と日本語の助詞や助動詞の
機能は同じではなく、少しずつずれている。例えば「が」と「は」の使い分けが少し
違う。そういう差異を抱える相手に日本語を説明しようとして、時枝は「てにをは」
の構造に焦点をあてた文法体系を作ったんだと思うんです。
だから、僕は時枝文法においては、韓国語の存在が決定的な役割を果たしていたと思
います。でも、吉本隆明にしても中村雄二郎にしても、戦後に時枝を評価した知識人
はその問題にほとんど触れてこなかった。いまでは、カルチャラル・スタディーズ系
の研究者で、安田さんという僕と似た年の方が韓国の時枝に焦点を当てて研究してい
ます。ただ彼の方向としては、「帝国主義者としての時枝」というか、もっとポリ
ティ
カルな部分に重点が置かれているんで、時枝の文法体系そのものに内在的に潜んでい
る韓国語の影響、みたいな点はあまり検討されていないんですね。だから僕は、それ
をやるといいのではないかと思うんですよ。まあつまり、日本論・日本人論の一つの
柱だった時枝の「風呂敷理論」というやつも、実はヨーロッパとの対決からだけでは
なく、韓国語との微妙な差異から生まれてきたものだ、ということですね。

碩:なるほど、そこからですか。

東:まあ、ひとつは。というわけで、デリダの韓国語訳が欲しいんですけどね。

碩:まだないのですか?

東:いや、あるはずですよ。ただ手に入れていないだけ。僕が韓国語があまりできな
いから(笑)。勉強しないといけない。
とにかく、いままでの哲学者の日本語論は単純すぎる。例えばハイデガーの哲学は、
be動詞がないと成立しない。これは本当のことなんだけど、他方、ハイデガーぐらい
有名になると、どんどん色々な言語に訳されているわけですよ。僕は旅行中に、中国
語もトルコ語も見たことがあります。そういうとき何が起きているか、もう少し関心
を向けたほうがいいと思うんですよ。特に日本のハイデガー学者やデリダ研究者は。
そうじゃないと、いつまでたっても、ドイツ語やフランス語という神聖な言語があっ
て、それから疎外されたわれわれが、ハイデガーやデリダの表現力にいかに日本語で
近づくかという、きわめて簡単な話しか出てこない。実はその問題は、日本だけでは
なく世界中が直面している。そしてそういう翻訳の多様性から、ハイデガーやデリダ
の核もまた違った風に見えてくるでしょう。
ハイデガーやフランス現代思想というのはいろいろ評判が悪いけど、僕は、それほど
バカにしたものじゃないと思いますよ。彼らは何かを考えていた。ただ、ヨーロッパ
語の構造の内部で考えているかぎり、どうしても特殊な修辞に引きずられてしまう。
そしてそのドイツ語をフランス語や英語やイタリア語に翻訳したところで、そこで出
てくる衝突もたかが知れている。しかし、日本語を初めとして、アジアの言語はぜん
ぜん違う構造をもっていますからね。そういう地域に生まれたことを利点に変えてい
くためにも、まあ、いままでと異なったアプローチが必要なんじゃないでしょうか。

碩:どうもありがとうございました。

(9/23 東京にてインタビュー)

 

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