トークライブ@つくば!<第1回>

宮台真司 『新世紀の自由』


2000年9月2日(土)AKUAKUにて
pm6:00 2000円(1drink付)




新聞・雑誌、テレビetc...などでもおなじみの社会学者・宮台氏をつくばにお招きしてのトークライブ!新たな世紀に向けてつくばから自由を語る。その時、若者文化・都市・社会や国家は自由とどう対峙するか!?


宮台真司 <MIYADAI SHINJI>
1959年生まれ。社会学博士。東京都立大学助教授。東京大学大学院博士課程終了。社会学的視点で事件から社会風俗までさまざまな事象を鋭角的に分析する気鋭の社会学者。援助交際、オウム、学校教育問題など幅広い分野で言論活動を行う。

宮台さんのホームページはこちら


CONTENTS

1.トークライブ@つくば 企画意図

2.宮台真司 発言 !! 

3.宮台氏の詳しいプロフィール

4.宮台真司著作一覧

5.宮台真司氏トークライブを控えてスタッフの事前対談

6.トークライブに先がけて行われた 筑波学生新聞の『宮台真司特集/インタビュー』

9/2のパンフレットより

企画意図

 現在、大量製産、大量消費の世界が大きく変わろうとしています。
それは、私達の生活や考え方にも及ぶ大きな変化と捕える知識人は少なくありません。
産業革命以来、明治維新以来の歴史の大きな転換と、毎日のように代名詞が飛び交ってもいます。
ところが、そもそも私達を取り囲む情報化社会とは何か、そして現代とは何か、どこに向おうとして
いるのか等を、真摯に検証しているものは数少ないのではないでしょうか。しかし、そのような現実に
も私たちの生から捕え敏感に言葉を発している知識人もいることは確かです。  そのような中、当たり前だとされていた様々な価値や基準を今一度考え直そうという風潮が大きくなる
まま、私たちは21世紀という新しい世紀を迎えようとしています。 残すものは残し、変えるものは変えてゆく、そうした世紀の節目に、私たちは現在の社会的な状況に問題
を投げかけている発言者をゲストとして迎え、21世紀を私たちが自由に生きるとはどういうことなのか
を語ってもらう企画を用意しました。
 第1回のゲストは社会学者の宮台真司氏。教育や社会の問題に関し、21世紀の自由のあり方について
語ってもらいます。
講演会や講義とは違い、ゲストと参加者が直接、意見を交わすようなトークライブの自由なスタイル。
またトークライブ終了後、お酒を飲みながらさらに親睦を深めていただく時間も用意しております。                    
                             
トークライブ@つくば実行委員会
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宮台真司 発言 !! 『自由な新世紀・不自由なあなたに』 メディアファクトリーより抜粋 古代には古代の、中世には中世の、近代過渡期には近代過渡期の、いわば時代に相応しい実存形式があるの
と同じように、近代成熟期には、やはりそれに相応しい実存形式があります。ですが、実存形式には、世代
の存続と結びついた「惰性」が必然的に存在します。
したがって、制度の変革期には、新しい枠組みの下に生まれ落ちた新しい世代は新しい実存形式を身にまと
っているのに、古い枠組みの下で長らく生きてきた世代はこうした実存形式を手にできないために、新しい
枠組みの恩恵から見放される、といった不均等が生じます。
 その結果、新しい世代に必要な枠組みが、古い世代の実存を脅かし、アノミー(混乱)を引き起こしがち
になります。こうした古い世代の中には、自らの実存形式の延命のために、新しい世代にとって必要な枠組
みの形成に敵対するものも、少なからず出てきます。
加えてここに、家や地域社会が単なる「学校の出店(でみせ)」になるという70年代半ばから急速に進行
した「日本的学校化」が絡みます。この学校化は、成熟社会化による家族の空洞化や、郊外化の進展による
専業主婦による子どもの抱え込みがもたらしました。
その結果、先進国の中で、日本の学校だけが成熟社会化(近代成熟期の到来)に合わせた変化を遂げられな
かったこともあって、学校(化)に適応するほど、新しい社会に適応できない、学校を守ると子どもを守れ
ないという、逆説的な事態が進行することになりました。
 すなわち、同じ世代の中でも、学校化状況に適応した「良い子」ほど、新しい時代の新しい制度的枠組み
によって脅かされる脆弱さを持ち、逆に、学校化された空間の外側に魂を流出させた(第四空間化した)
子ほど、自由に生きられるようになっています。
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宮台真司プロフィール 1959年 宮城県仙台市に生まれる。 ◎小学生時代(1965-1970) 父親の転勤により、1971年に麻布中学に入学するまでの間、ほぼ1年ごとに転校を繰り返す。 この頃、少女漫画にハマる。少女漫画をコミニュケーション・ツールとして、転校先でも容易に女の子 と仲良くなり、自分の居場所を確保することができたという。 ◎中学・高校時代 1971年に麻布中学入学。中高一貫の私立校で、6年間を麻布で送ることになる。 学園紛争が終息したころで、学園内にはアナーキーな雰囲気が流れていたという。 男子校だったため、少女漫画がコミニュケーションツールとして使えず、孤立する羽目に。 次第に観念的になり、学校の屋上で過ごすことも多かったという。とはいえ、SF小説やマンガを書いた り、マルクス主義に興味を持ったり、ピンク映画にハマったり、と様々なサブカルチャーと接しながら 6年間の学生生活を送ったようだ。 ◎大学生時代 1978年に東京大学入学。映像文化研究会というサークルに入り、映画を撮る。 1980年東大社会学科に進学。 この頃、突如社会学にハマり、短期間に3000枚の情報カード作成。 550枚の卒論を完成させ、希望であったマスコミ対策の勉強を始める。 ◎大学院生時代 1982年に東京大学大学院修士進学。念願のマスコミ志望もかなわず、大学院に進む。 学者になる気はなく塾の先生として生計を立てようと考えていたらしい。 1984年に修士論文『行為理論の再構成』を書き上げ、博士課程に進む。 この頃、学生企業ライズコーポレーション設立に参画。ドキュメンタリーの仕事が中心。 (ライズコーポレーションは後にマーケットリサーチの仕事が中心となる。 ライズコーポレーションでの経験は、後のサブカルチャー大規模統計調査 (『サブカルチャー神話解体』参照)を着想する基盤となった。 またこの頃、世界初のテレクラが誕生し、すぐにテレクラにハマる。 博士論文は『権力の予期理論』(1989年に勁草書房から出版)。 ◎その後 1991年 東京外国語大学に勤務(専任講師)  1992年から『アクロス』に1年間、『サブカルチャー神話解体』を執筆。 『アクロス』連載の必要からブルセラ女子高生を連続取材。 以後、現在に至るまで、ブルセラ女子高生、援助交際、オウム事件、少年犯罪、教育問題、 天皇制問題、戦争責任問題、サブカルチャー論と幅広いテーマに関して執筆しているが、 宮台はそれらは互いに無関係なものではないとして、「終わりなき日常」などのキーワード から現代社会論や文化論を繰り広げている。 また、現代を近代成熟期と捉え、時代にふさわしい実存形式に速やかに移行するため、 教育制度や行政問題に関し、積極的な提言を続けている。現在は東京都立大学人文学部社会学科助教授。 社会学博士。 CONTENTSにもどる
宮台真司著作一覧 著作 『権力の予期理論』   1989 勁草書房 『制服少女たちの選択』 1994 講談社 『終わりなき日常を生きろ』 1995 筑摩書房 (1998年に筑摩書房により文庫化) 『透明な存在の不透明な悪意』 1997 春秋社 『まぼろしの郊外』      1997 朝日新聞社(2000年に朝日新聞社により文庫化) 『世紀末の作法』      1997メディアファクトリー                         (2000年に角川書店により文庫化) 『これが答えだ!』       1998 飛鳥新社 『野獣系でいこう!』      1999 朝日新聞社 『自由な新世紀・不自由なあなた』2000 メディアファクトリ− 『リアル国家論』        2000  教育史料出版会 『援交から革命へ』        2000  ワニブックス 共著 『サブカルチャー神話解体』宮台真司・石原英樹・大塚明子 著 1993 パルコ出版 『「異界」を生きる少年少女』門脇厚司・宮台真司 編     1995 東洋館出版社 『新世紀のリアル』宮台真司・中森明夫・藤井良樹 著     1997 飛鳥新社 『流行りの文化超研究』宮台真司 他著            1998 青幻舎 『学校を救済せよ』 尾木直樹・宮台真司 著         1998 学陽書房 『学校的日常を生きぬけ』宮台真司・藤井誠二 著       1998 教育史料出版会 『よのなか』藤原和博・宮台真司 著             1998 筑摩書房 『ポップ・カルチャー』宮台真司・松沢呉一 著        1999 毎日新聞社 『買売春解体新書』上野千鶴子・宮台真司 著         1999 柘植書房新社 『居場所なき時代を生きる子どもたち』三沢直子・宮台真司・保坂展人 著                              1999 学陽書房 『ルール』藤原和博・宮台真司 著              1999 筑摩書房 『戦争論妄想論』宮台真司・姜尚中 他著           1999 教育史料出版会 CONTENTSにもどる
        ☆宮台真司氏トークライブを控えてスタッフの事前対談☆ 今回、宮台真司さんをお迎えするにあたって、事前にスタッフの間で、新世紀をどのように生きていく かをテーマに、対談をしました。         <語り手> 野口 修 (野)アクアクのマスター 碩 典一 (典)人文4年 今井 京助(京)国際3年 岸田 夏枝(夏)社会2年 野「このイベントでやろうとしたことっていうのは、いきずまった社会的状況があってそれ がたまたま新世紀ということもあって、二十一世紀にはどのような言葉をもってシステム を変えていったらいいのだろうかっていうことで、今それに向けて挑発的に発言をしている人々を呼んで 話し合ってみようかと。 そうすることによって今のシステムじゃなくて、新しいものへの希望があるかもしれない。 希望があるかも、としておかないとつらいところがあるから。 成熟社会の希望と成長過程の希望というのは違って当たり前。 じゃあ成熟社会の希望って一体何なんだろう」 夏「教育現場について言えば官僚的な能率は、もう望めないと思う。 でも、結局今の先生って、高校出て大学出て学校の先生になるわけじゃん。 ずっと学校の中にいるわけだから、それは官僚的になるわって思う。困ったわ。」 典「そうだよね、それこそサーファーとかで知っている人呼んできて、授業やってもらって  生徒がそれにはまったらそれでいいんじゃない。」 野「多様な生き方が選択できる社会システムというか、それをまた支える社会を構築していく方向が 望ましいとは思うんだけど、そうじゃない、単なる分かりやすいものにしようとするか、オウムなんか 非常に分かりやすい社会を求めていたような気がする。」 典「今までは大量生産主義で、十人いれば十人とも同じ方向を向いてることが望まれてたんだけど、 これからはもうそれでは無理だと思う。 もともと十人いれば十人とも別の方向向いてるのが当然なんだから。 で、そういうのって非生産的だし、非効率的だし既存のマニュアルが全然通用しないんだけど、でも 結構おもしろいことになるんじゃないかなあ。」 夏「学校の先生だけにそれを押しつけるんじゃなくて、色々なところでできるといいよね。 でも、もう親にだけ求めるのもしょうがないと思うんだ。 地域の人とかもちろん学校の先生とかあらゆる所に場所があればいいと思うの。 でも今は家も地域も学校的。去年、同じ学類の友達も言っていたけど、家でも地域でも親はアンテナ立て て、あの子がどうだ、成績がいいだ何だって言っている。息つまるよね。特に田舎の方がそうっぽい。 あと、何で学校のほかに塾まで行って塾は批判の対象になりがちだけど宮台さんはそのことについて、 塾は学校とは違ったところで違う場所が持てるからまだ救われているんだって言ってたわ」 野「僕が一つ聞きたいことは自分自身について。三人はまだ就職前なわけじゃない。 で、学校のこととかあるいは少年犯罪のこととか、そういうことももちろん自分を考えるためには必要かも しれないけど、君ら自信は二十一世紀をどう生きようとしてるのかな。自分の問題としても考えられること でしょう。やっぱり他人の問題じゃなくて社会の問題でもあるけど自分の問題でもある。 だからこのイベントを企画してそれを自分に返していく。 自分の生き方もそこで見つけていこうっていうことになっていくから。 それで来る人も多分普遍的な意味って言うのをみつけるということも大切かもしれないけど、その状況と宮 台さんの言葉とかあるいはここに立ち現れる言葉とかの中で自分の生き方もクローズアップさせていくと思う。 その中で自分に言葉が交わされればこのイベントは結構イケテルかなって思う。 みんな他人事になっちゃうとあんまり・・・。 結構若い人たちも来ると思うんで現在の自分の問題みたいなものをそこで。」 夏「私は上の世代とも、下の世代とも、分からないながらも刺激し合って学んでいきたいと思う。 例えば自分に子供ができたら、愛しているのよっていうことで、自分の価値観を押しつけて、無理矢理分 かり合おうとはしたくない。愛していたって、分からないことは分からないでしょ。 分からないから面白いことだって沢山あるし。 だから、そういう方向じゃなくて、自分も子供の世代から学んでいける姿勢でありたいと思う。 きっと自分たちが親になる頃には、子供たちはまた違う価値観をもっていると思うしね。」 典「親が子供を愛するっていいことだと思うけど、愛っていう言葉でくくられちゃうと反論できないよね。 俺は自分が父親になったら、自分がやりたいことをやってるってことを自信を持って子供に示したいと思う。 でもそれは難しいんだろうけどね。文句たれるじゃん、絶対。仕事がおもしろくなかったら愚痴っちゃうだろうし。 アメリカとかだったらさ、「じゃあ何でその仕事やめないの、何で自分の好きなことしないの」って言われちゃうんだよ。 で、そういう無責任な態度って子供にうつると思うんだよね。学校が悪い、社会が悪いってすぐ人のせい にしちゃう。でも、アメリカだと問題が起こったら、じゃあ、私が変えましょうってなる。 でも,それって制度的にもやり直しがきくからなんだよね。 日本はここで道を間違えたら終わりですよみたいな風潮がありすぎなんだよ。学校もそうだよね。」 夏「私は中学受験で落ちたことがあるの。そのとき『私の人生はここで決まっちゃうんだ』と思った。 その時の絶望感って言うのは、単に親の価値観に振り回されてたからかな」 典「やっぱり社会的な風潮だよね。就職してから大学入ってやり直せるような環境とかって非効率かもし れないけど・・・」 夏「でもそういうのを実現するためにどうすればいいかって考えるとき、今までみたいな経済発展を望む のは難しい気がする。私はシンガポールとかマレーシアとかにアジアの経済力は握ってもらって、日本は 成熟社会を生きていけばいいって思うんだよね。昔と今は違うのだから、昔の古き良き時代に戻ろうって いう発想じゃなくて色々試行錯誤して新しいシステムを作っていかないと。そのためにはどうすればいい かってことを宮台さんとかもがんばってるんじゃないの。」 京「今、なっちゃんが言ったようなことが前に新聞か何かに書いてあったのだけど、バブルのころは果た して幸せだったのかっていうと、どうだったのかって言うのは疑問だよね。俺は基本的に食っていければ いいやって思っているけど、今、不況と言われている中で、選挙とかでも経済の復旧とかしか掲げられな い政治家もどうかと思うし。」 夏「そうよね、日本はアジアで一番、世界ではアメリカに次ぐ二番目の経済大国になったはいいけど、夫 は会社会社で夜遅く、あげくの果てに過労死なんて、泣けてくるわよね。大量生産をして、大量消費して いく方向じゃなくても、経済活動は利潤があればいいのだから、物を作って物を買う以外に、お金を違う 方向にまわせないかしら。福祉とか、環境保護とかさあ。」 典「大量生産の時代は終わったよね。短絡的な言い方になるけど、大量生産の時代が終わった後どうする かって言うと、百人いたら百通りの品物ができるって言うか。それはちょっと高くてもまぁいいというか。 それぞれが違う生き方をしてもいい社会ってことだけど」 京「でも今結構そうなってきてると思うけど」 野「そうなんだけど、その反動ってのもあるよね。今の森政権とか。」 京「反動って言うのももちろんあるし、それに加えて、分散された状態の中で、島宇宙同士が分断されす ぎてるって問題があると思う。やっと統一された社会的レールみたいなものから脱却しつつあるのはいい んだけど、自分と全く違うことをやってる人間たちに対する配慮というか意識が抜けている気がする。 だから島宇宙同士のコミュニケーションが成立しないってことだろうか」 典「それは仕方がないんじゃない。学生紛争的なものが望めない今となってはなにするにしても個人個人 でやっていくしかないんじゃないの。学生紛争的なあり方がいいとも思わないし。」 野「自分一人でやるって言うのもいいんだけど、今話してたような背景を理解している上での連帯って言 うのもあり得るんじゃないかな。そういうタイプの連帯っていうのは新しい社会のシステムにヒントを与 えるんじゃないかな」。 京「でも筑波大学ってこういう島宇宙の架け橋的なものを作り出すためにあるんじゃないかな。 学際教育とか掲げてるわけだし。AKUAKUとかってどうですか。この店って本当に色々なイベントと か展示とかやってますよね。で、色々な種類の人たちが日替わりにやって来て、野口さんはそれらの人た ちと色々なものを作り出しているわけでしょ。それってスゴイなと。」 野「AKUAKUというのは表現というものを媒体にしているんだけど、表現って色々な形がある。 しかしそこに通底しているものは、次なる言葉を生み出す要素があるんじゃないかなってこと。 だからあえて分類はしない。AKUAKUの基本はフリージャズにある。フリージャズって言うのは、 ミュージシャン同士ならどんな人とも一緒に演奏するわけ。そこでは合う人もいれば合わない人もいる。 自分が自由にやっても相手の音も聞かなくちゃならない。客もいる。 その中でどういう共存ができるかっていう勝負を瞬間瞬間やっていく。 そういうものが社会の底辺におかれた場合、かなり多様な構築ができるんじゃないかなって思う。」 夏「フィンランドのムーミン博物館ってところに行ったことがあるのだけど、そこに書いてあったことで、 ムーミンという童話は実はムーミンママの存在って言うのがすごく大きいみたいで、ムーミンの家はいつ でもムーミンママによって扉が開かれていて、そこにはスミフのようなニヒルなやつもいて、スナフキン みたいなアナーキーみたいなのもいて、別に無理に仲良くするってわけじゃないけど、共存してるじゃん。 そういう方向性で当時ナチスの時代でファシズムに向かっていくことへの批判的な物語なんだって。」 典「扉を開けるって言うのは今後ますます必要になってくるだろうね。」 野「おもしろいね、扉は無数にある。さぁ扉を開けろ!(笑)」 夏「それ、締めですか?(笑)」 〈おわり〉 CONTENTSにもどる
トークライブに先がけて行われた 筑波学生新聞の今月号の『宮台真司特集/インタビュー』 新世紀への序曲 脱共同体的社会に向けて  

筑波っていう土地に対して何かイメージはお持ちですか。


宮台「寒い。まぁ都立大がある南大沢と同じだよね。こういう所にあるニュータ
ウンに移り住んでくる奴がいるでしょう。お前の目は節穴か、って言いたいよね。
都立大学のきれいなキャンパス見て『素晴らしい大学だ』って思って入ってくる大
学生っていっぱいいるんだけど、同じく節穴だよな。結局、実りある空間って言う
のはコミュニケーションチャンスによって計られるっていうのが分かってない奴が
いて、コミュニケーションチャンスを豊かにしうる空間、それがアメニティのある
空間だろ」。
 筑波みたいな空間だと「陸の孤島」とか言われているだけあって色々とコミュニ
ケーションのための試行錯誤ができにくい環境にあると思うんですが。
 宮台「閉じた田舎とか人工的な街にあってはいずれにしろそこから出ていかなく
てはいけないわけで、極めて雑多なネットワーク、雑多な人間達、雑多な文化と接
触する以外には生きていきようがないわけじゃないか。その時に脆弱な人間達は、
自らの脆弱なプライドを守るためにその雑多な空間の中から退却して防衛的に振る
舞うしかないわけだよ。あるいはその挙げ句、または防衛がうまくいかない場合は
攻撃的になったりするわけじゃない。まぁ逆に言えばさ、そういうところにタフさ
があればどこに出かけていったって動じないし、退却の必要はないし。で、むしろ
その雑多な互いに無関連になった島宇宙を相互に関連づけたり、新しい動機付けの
構図を見出したりとかできるようになるよね」。

新しい動機付け、と言いますと?

宮台「どんどん社会って動いていくから。この日本における社会問題一つとって
もね、昔だったら教育セクターが担当するべきだとか経済セクターが担当するべき
だとか既存のセクターの中で対処できてたけど、時が経つにつれて既存のものでは
対処できないような問題も出てくるよね。そうした問題について議論できるために
は色々なセクター、あるいは色々な島宇宙の内在的な視点を軒並み取れること。軒
並み取った上でそれでは不十分であると感じることができる感受性があれば自分で
新しいコミュニケーションが創りやすいよね。抽象的にはそういう論理的なことな
んだけど」。
 

筑波大には学生宿舎というのがありまして、そこでは終電とか門限とか規則とか
事実上一切ないに等しい環境です。そう言う中で割とノリだけではない腹を割った
コミュニケーションができると思うんです。それって社会に出たときに単なる時代
遅れなのか、それとも何かメリットが見いだせるものなのでしょうか。

宮台「現実の社会ではそういうことができる環境っていうのが、同じ様な意味で
は存在しないから意識的に作り出していかなきゃいけないし、意識的に場や人間を
見つけだしていかなきゃいけない。それができるかどうかだろ、簡単に言えば。そ
れができない場合には筑波大で経験していたようなものを享受しようと思えば退却
的になるしかない。そういうふうに腹を割れる人間、努力をしないで腹を割れる人
間と戯れるというのは当然非常にローカルな場所に穴籠もりしていくようになるよ
ね。筑波のように人工的に多くの人間が、それこそ押し込められるというかね、生
活時間の多くを共有させられるような空間に入れられるってことは現実社会に全く
存在しないから。むしろその雑多な流動性の中で環境を作り出していく力が必要に
なるわけでしょう。で、参考までに言うと、アランという友人社会学というのをや
っている人がフレンドシップの三条件を提示している。一つは利害ではなくて情緒
で結びつくということ。これは日本人でも理解できるな。もう一つは貸借関係がな
い、対等な関係であるということ。これも日本人的にもまぁ理解できる。しかし三
番目の一番重要な条件だと言っているのが、『自分で選択した』ということ。これ
は日本人には全く理解できない。日本人はさ、例えばたまたまクラスで一緒になっ
た人間を友達と言っているし会社の同僚を友達というふうに言っているよね。これ
はアランの言うあるいはアランの前提とする欧米的な意味でのフレンズじゃないん
ですよ。それはフェロウ、仲間。単に場を共有してる奴。場を共有してる奴なんて
仕事場に行けばいるんだから選択でも何でもない。与えられたことだよね。だから
フェロウって言うのは友達とは関係ないしその前提ですらもない。筑波大の寮生活
で経験してるのは全部仲間じゃない。田舎っていうのは下駄が履けるわけ。探索コ
ストが低いから。それこそ共同体的な空間であれば仲間と友達なんて区別する必要
もないんだよ。それなりに始めからみんな前提を共有しているんだから。共同体的
ではない社会というのは限りなく高度な選択をしなければ多くのものをシェアでき
る人間なんて見つけられるはずもない、という感覚があるわけ。逆に言えば日本は
非常に共同体的な感覚をまだ多く残した社会であるから、コストをかけて努力をし
ないと友達が見つからないんだという感覚はまだないんじゃない。あるいはそうい
う共同体的な空間で同調するってことに慣れているから、共同体に還元できない個
人的な深さというものが足りなすぎる。であるが故に、特定の相手でなければ個人
的な深さの部分をシェアできない、という感覚がないんだよ。通り一遍の自我しか
ないから、あるいは入れ替え可能な自我しかないから。別にその友達じゃなくても
いいし。自分じゃなくても言いわけじゃない、はっきり言えばさ。こんなような感
覚が欧米的な意味での『フレンド』という概念を成立させるのを妨げてるわけね。
 まぁ筑波とはだいぶ趣が違うけど、ヨーロッパの伝統的な大学街っていうのは結
構周辺から孤立している所は多いんですよ。街に行こうとすれば車で二時間も三時
間も走らないとディスコなんかに行けないっていうのは一般的なんですよ。でも逆
に、そういう国は幼少期から個人主義的な場所で育っているから、それまでに充分
に個人的な深さっていうのを身につけている。何も考えてない奴がただ集まって時
間を共有しているのとは全く違う感じだよね。それぞれの場所で全く異なることを
感じたり経験して、お互いにそのことを了解し合ってる人間達が大学に入ってきて
時間を共有する。これは意味がある。大学入る前にほとんど何も考えないで、適当
に偏差値にあった所に入ればいいという感じで一日五時間とか勉強してきた奴は駄
目じゃん。そんなふうにして大学入ってきた連中が四六時中一緒にいるってのは
さ、小学生のボーイスカウトと変わらないよな。発達課題という意味で言うと十数
年前にクリアしているべき問題だよな。こんなふうに考えると、筑波の具体的な環
境を直ちに「それが問題だ」と言うよりも、そこに来る学生達がどういう成長過
程・自己形成を遂げてきたか、ということくらいしか評価できないんじゃないか
な。でも日本みたいな空間だと筑波大だけを問題にしても駄目でさ、どこに行って
も大差ないわけだよ。みんな無教養だしさ、共同体主義的だしさ、自分の頭でもの
を考えられないし、所属したがってるしさ」。
 

古くからの共同体意識っていうのは根本的に断ち切れるものなんでしょうか。

宮台「これから断ち切れる奴はどんどん増えてくよ。今でも増えてるし。まぁい
つの時代も断ち切れない奴もいるだろうけど。でもそれは減ってくる。その理由は
簡単に言えば社会の流動性と異質性が高まってくるからです。その流動性と異質性
に適応しようと思えば、ある程度共同体主義を捨てて行くしかないわけ。それは誰
にとっても同じ条件です。誰にとっても同じだから、じゃあ誰もが同じようにする
かっていうと、そうではなくて、同じ条件が与えられた場合には確率論的に一定割
合が共同体主義を捨てるでしょう」。
 

と言うことは一定割合は共同体主義者が残ると言うことでしょうか。
 

宮台「そうではなくて、社会というのはどんどん先に進んでいくから『赤信号み
んなで渡れば怖くない』ではないけど、共同体主義的ではない奴がどんどん増えて
けば共同体からハブにされることも心理的なコストもどんどん低くなるし、そうな
るとどうってことなくなるよね」。

共同体ではない、という共同体ができるということですか

宮台「そうは言えない。共同体という概念は厳密に使う必要があるからさ。社会
学の中では『生活時間と生活空間を全面的に共有することによって同じ体験枠組み
を持ってる連中の集まり』、これが共同体だ。で、こんな奴らはむしろ減った方が
いいよな。単に不快でしょ?そう言う奴らって。『君と僕は同じ人間じゃないか』
と言う奴に『ふざけんな馬鹿野郎、お前なんかと同じ生き物じゃない』っていうふ
うに言えたらおもしろいよね」。

今、酒鬼薔薇聖斗の年代が十七歳になって色々騒がれてますが、どうお感じですか。

宮台「あれはね、伝播系と同じ現象が起こっていて、酒鬼薔薇が十四歳であるこ
とによって、同じ年齢である人間が『呼びかけられた』って感じるわけでしょう。
十七歳という年代に意味があるわけじゃなくて、たまたま、ある素因を持った人間
がたまたま酒鬼薔薇と同年代であることによって呼びかけられたふうに感じて連鎖
してるわけじゃない」。
 

呼びかけられたと感じるわけですか。

宮台「当然だよ。分裂症の人などをたくさん見てる人であれば、こういう事件が
起これば同じ年齢の人間達が動揺するな、っていうのが分かるわけ。今後は人と物
との区別が付かない脱社会的なタイプの人間はますます増えますよ。なぜ増えるか
って言うと、簡単に言えば脱社会的な人間を生み出すような養育環境が改善される
どころか深刻化してるからですね。その理由は、学校化とコンビニ・情報化です。
 学校化って言うのは家や地域社会が学校の出店になることで、非常に乏しい尊厳
のリソースで、たかだかちょっと勉強ができる程度で他者との社会的な交流とは無
関係に『俺は凄い奴であるはずだ』とかって思いこめちゃう。これはストーカーな
んかを量産する環境でもあるし、あるいはそういうふうにして育て上げられたプラ
イドが現実には通用しないから、たかだかちょっと成績がいい程度で、ろくにコミ
ュニケーションができない何のスキルもない阿呆がさ、俺は凄いと思ってるだけだ
からすぐに潰されてしまう。そうすると彼らは脆弱なプライドを維持できる領域に
退却するわけじゃない。ストーカーと引き籠もりというのは同じ根があるし、さら
に言えば人と物の区別が付かないタイプの脱社会的な存在とも根は共通だよね。
 あともう一つはコンビニ化・情報化って言うのがある。人とコミュニケーション
しなくてもさ、生活できるんだよ。物も買えるし。インターネットなんかで部屋に
居ながらにして本もCDも玩具も飯も何もかも手にはいるわけだから。でもコンビ
ニ化・情報化は不可逆ですよね。これは押しとどめるべきじゃないし、利便性が高
いからどんどん広がっていくよな。どうしたって家族の多様化は進むじゃない。そ
れを支えるには重要だし、ハンディキャップのある人達にとってはハンディの中和
という意味では非常に重要だよね。部屋にじっとしてるだけで飯も食べられるし、
生活必需品が容易に手に入るし。だからこれからどんどんコンビニ・情報化は押し
進めなくてはいけないんですよ。極限まで。とするならば、もう結論ははっきりし
ていてこのようなコンビニ・情報化的な方向に抗して他人との社会的な交流抜きに
は自己形成できないような、それ抜きにしては自らの尊厳を保てないような生育環
境で子どもを育てるしかない。そのためには学校教育の在り方が全面的に変わらな
きゃ駄目だし、親業のあり方も変わらなきゃいけない。それははっきりしてるんだ
けどできないからさ、僕も学校の教育改革には努力してるけど、時間はかかるよ。
時間はかかるから、その分脱社会的な人間は量産されていくわけ」。
 

その場しのぎの対策というのはあるんでしょうか。

宮台「どの学校でも既に先生達は知ってるんだよ。一学年に二人から四人くらい
はいるよ、人と物の区別が付かない奴はさ。でも何も手を打ってない。当たり前だ
よ、自分がヤバイんだから。自分がポコられるかもしれないし。警察だって動かな
いしさ。今のところ全体的に公教育とかを当てにしない流れが必要で、文部省もそ
うなってるじゃない。学校教育変えようと思ったら先生なんて入れ替えないと変え
られないんだよ。半分は首だよ。不適切な先生だ、っていうことで。でもできない
じゃん、そんなことは。だからもういいからさ、自由の森だろうがフリースクール
だろうが外国の学校だろうが何でもいいから、大学入学資格検定一発通れば全部O
Kというふうにすると。馬鹿がうつらないためには抱え込まれないのがいいんだ
よ。とすると今の制度的なプログラムに関して言えば、その外側を通り抜けたほう
がいい。
 僕みたいなのが今こうやって育ってるのは麻生みたいな変な学校があったことも
大きいよな。麻布って言う空間は勉強できる奴が尊敬されるっていう環境じゃない
んだよ。『お前勉強以外に何ができるんだ』というところでみんなつっぱり競争す
るわけ。その場所で今考えれば痛々しいほどの『俺はただの優等生じゃないもん
ね』みたいな競争をするわけだよ。悪いこと一個するわけね、背伸びをして。それ
は今から振り返ればよかったと思うよ。麻生の奴とかってさ、大学入る頃には疲れ
ちゃうんだよ。『女はいいや適当で』って感じで(笑)。やっぱりバカは若い頃に
やるべきなんだよ」。 

やっぱり時期とか間違えるとやばいですか。

宮台「やばいやばい。中学・高校でバカはやってくれと思いますね。大学入って
じゃ遅いんだよ。
 文部省が教育プログラムを改革してるから、教員免許持ってない人間が教壇に立
っても構わないしさ、中学で一斉カリキュラム止めたって構わないんだよ。個人カ
リキュラム化したっていいの。別にクラスをなくしたって構わないし。性教育とか
言ってAV女優呼んできてやったていいんだよ。やってる奴いるかそんなの、いな
いだろ、何も知りもしないくせにさ。性的な領域で色々試行錯誤してくれば自分を
大切にしすぎる奴が頭変になったり不寛容になったりするって分かるしさ。性的な
リベラリストっていうのはみんな色々な経験してきてるわけじゃない。そういうふ
うな経験してる人間はさ、別に誰が何やったってそれで人格壊れるとか、君の人生
は終わっちゃうんだ、なんてバカなこと言わないでしょう。全然OKだよ。幻想を
持っているのは構わないけど、(試行錯誤してない人は)それがどういう幻想であ
って、他の幻想とどういう関係にあって、現実とはどういう関係があるのかってい
うのがわかんないんだよ。そういう奴が極端に相手に幻滅したりとか、幻想を押し
つけて人に迷惑かけたりとか。ウザイ奴ばっかりじゃん。そういう人は撲滅する必
要があるんだよ(笑)。そんな人間にならないためには、やっぱりヤリまくるしか
ないでしょ、若い時に。そういうふうに色々と経験してきた人間は、どこかで手を
打って結婚なりなんなりした時には、もう思う存分やってきてるからルサンチマン
残んないじゃん。そういう試行錯誤しないで結婚した奴はさ、情報に煽られて『こ
の人と結婚してなければもっと別の人生が・・・』とか思うんだけど、それならも
っと若いときやっとけよ。もう手遅れだよ今さら。でもまぁそういう女性もいるか
ら人妻好きの僕としては全然OKなんだけど(笑)」。

宮台さんの本を読んだ時に男と女とでは反応が違うということが書かれてあった
と思います。女性の場合は本を読んで「やっぱりこれでいいんだ」というふうにな
るけど男性の場合は「やっぱり僕は駄目なんだ。これから一体どうすればいいでし
ょうか」というふうに。で、「どうすればいいでしょう」と聞いてきた男達に何て
答えていらっしゃるんですか。

宮台「それは全体に対する確率論的な評価と個人的なアドバイスというのが違う
というのがまず重要です。
 全体に対する確率論的な評価ということで言うと、早い頃からある程度の試行錯
誤を経た段階で僕の本を読んで『やっぱり自分のやり方でよかった』と思ってくれ
るのが健全で、僕の本を読んだ時点で『なんだやっぱり駄目なのか』と思うのは遅
すぎです。そんな遅すぎる奴がこれだけ社会に溢れ出てる状況は際めて問題ね。そ
んな状況を全体的に何とかするっていうのは難しいよね。例えば脱社会的な人間が
いっぱい溢れちゃっとするよね。そう言う人間に人を殺さないでおいてもらうって
いうのは大変なことですよ。それはコストのかかることです。でもそうじゃなく
て、小さいときから共同体的じゃない人間を作るとか、脱社会的に育たないような
教育環境で社会的な人間を育てるというのは充分に可能性がある。だからそれを一
生懸命推奨してるわけですよ。それが僕の仕事でもあるから。『変な奴』を作らな
いための教育プログラムはこうだ、とかそういうことを言ってるわけですよ。でも
『俺はもう既に変なんですけど、どうしたらいいですか』という話がでてくるよ
ね。それについては今まであまり語らないできたんだけども、そういう奴らに対し
ては『そんなこと知るか』ですよね、簡単に言えば。それはお前が考えろ、ってこ
とだよね。君らのような人間はまずこれをして次にこれをして・・・なんて言って
たらそれこそ痛々しいよね。しかし敢えて言うなら、今頃気付いたのは遅すぎるの
で死にもの狂いで達成してこなかった発達課題を達成する努力をしなければいけな
い、と言うだろうな。今まで異質な人間とコミュニケーションしてこなかったので
死んだと思って(笑)、頑張っていくしかない。それができないなら穴に籠もって
下さい。できるだけ人畜無害のところに。危ない宗教とかじゃなくてね。

(取材=筑波学生新聞・今井)

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