NODA・MAP カノン シアターコクーン
2000・5・13
作・演出 野田秀樹
原風景として『あさま山荘事件』を捉えている人々は少なくないと思う。現に私もそのひとりだ。野田氏の芝居は遊眠社以来だが、以前にもその臭いは確かなものだった。
そして、そこからの出発であったと、今回の芝居を見て思った。
出発であるのなら、いつかはしっかりと自らのスタイルで描かないといけない日がくるだろう。カノンはまさしくそうである。
繰り返しやってくる原風景に現在の表現をたずさえて、形にしていく作業。カノンは、ここまで来たぞと、内心の野田の息づかいが聞こえるようだ。
共演に串田和美氏を迎え、2人の語り手を用意したのは周到な仕業である。串田氏が遊眠社を見にいったところ「自由劇場の串田さんだ」とアドリブで野田が言ったらしい。
余談のようだが、私も、状況劇場の「風の又三郎」を見に行ったとき、串田さん達が見に来ていて、何処からともなく、「串田さんだ」という声が聞こえた。野田は、そして串田は、実在の登場人物としても、二人の世代にとっても、この舞台に必要であった。
たしかに、シアターコクーンの会場をソールドアウトし、郷愁をもって語られる物語には、罵声を浴びさせたい気持ちもあるが「それってなに、僕はこう思うんだ」と言われれば、そうだと、うなずく力もそなえている。
奪い取るものではなく、勝ち取るものへ。
新しい自由への欲求がまさるからか、私は、カノンを支持する。不思議な解けない絵の、そのまた向こう側の絵を、繰り返し盗みに行く盗賊の群れと共に。
2000.1.13
Pappa TARAHUMARA
シアタートーラム WD ‾ 悪霊プロジェクト
私が最も注目しているパフォーマンスグループの一つである。わが国に於いて世界に出て行ける数少ないグループであると思う。彼等の表現は常に刺激に満ちている。今回も優れていた。ドストエスキーの「悪霊」に想を得た「WD ‾ 悪霊プロジェクト」20世紀を問い直す試みということの要である。何をいってるの?と思うかもしれないが、代表の小池氏としてのこれまでの表現行為から片付けて置きたいテーマであると思える。というのは来世紀に向けてどのような表現をしていくか意識的に模索していると思えるからである。「船を見る」がPappaTARAHUMARAとして、ある意味でグループの総決算であり新たな始 動を提示する作品であったと思える。そして、今回のWDは新たな社会状況に表現者としてどう立ち合うかが主な主題のようだ。ドストエスキーの作品が20世紀への言葉だったように。
作品の創作過程ににうかがえるように、この作品は4部作の構成で2001年に完成予定としている、そして国境を越えて制作の現場を移していくとなっている。まさに現在
という状況に身を投げ出した表現者達といえなくもない。来世紀に向けてどのような言葉を提示するかは表現者にとって最も大切な仕事であるだろう、このグループはそれを表現しようとしている数少ないグループの一つである。次回が楽しみである。
1999,3,17日
『時々自動的思考』 時々自動 シアタートラム 構成・演出 朝比奈尚行
とても良いと思った。それは、現在とは何だろうか?という問が素直に問われているように思えたから。「時々自動」の現在とは、と言い 替えることもできるようだ。 表現と現在、というものを対に考えながら、危ういバランスを表出していく。これは、多くのコンテンポラリーアートに見受けられるものだが、それをある程度表現しきれているというものに出くわすのは、現在なかなかむずかしい。 時々自動の試みは、大変労力のいることではあるが、それを「面白み」と捉え直す術を彼等は、長い間に習得したかのようだ。
今回の作品は他者(100人のボランティア)の参加によって、演劇を成立させることに見えてくるものが、主題といえる。それが、小市民的ものであろうと、ある混乱を迎えようとも、これが私たちの現在でもある、と言い切れるものがそこにはあった。 劇場は、あなたの部屋、私の部屋と化し、新たな空間の表出へと向かう。それはある混乱ではなく、小さな勝利の空間のようであった。 朝比奈氏は一期、二期、三期と括りながら表現を見つめてきたようだ。これも一つの方法である。
現在、私たちは何処にいるのか、ということを身体的に感じることが、難しい状況を迎えている。
その中で、確かな小さな勝ちを積み重ねていく重要さを、彼等の作業から感じることができたのは、私だけではないだろう。 時々自動の試みは、現在というものに渡り合える術を身につけたといえる。今後の活動は、また新たな段階を迎えることになるだろうが、注目せずにはおれない団体である。 それにしても私事ではあるが、無防備に劇場に入った私に、奇妙な懐かしい混乱が押し寄せたのには、驚いた。市外劇「ノック」であった。
夢枕漠 作「ちょうちんが割れた話」
夢枕漠 作「二ねん三くみの夜のブランコの話」
筒井康隆 作「如菩薩団」
半村良 作「箪笥」
つくばカピオホール
出た怪優。暗闇の中にスーと出た。思わず懐かしく体がゆるむ。やっぱり良い。美しいたたずまいだ。後半の「箪笥」は絶妙である。箪笥の上に子供がいっぱい並あーんでる。白石加代子「百物語」という世界をしっかり作りあげている。役者が舞台に立つということをこれほど素直に魅せられる人はなかなかいない。白石加代子は,すっごーいんだ。20年も前の早稲田小劇場の空間が目の前に甦る、至福の時を過ごすことができた。つくば市の事業で、このような作品を紹介できるのは前進である。
久々に蜷川演出を見た。劇場の中で『劇団風煉ダンス』の林氏に会う。なんと3人隣であった。蜷川を林がと思ったが向こうも思っていたりして。さて、作品については、市村正親さんはやっぱりうまいね、と二人で言い合って、その他はパスとなってしまった。申し分けないが語るべきものがない。馬の動きが良かったと付け加えておしまい。
彩の国さいたま芸術劇場には大変良いものを見せていただいているが、シェークスピア37作2010年までに完全劇破とは、良く解らん企画ですね。
1999,
2, 21
「Night Songs 夜誦」
宮田 佳 舞踏詩
構成・振付・美術・照明 勅使川原三郎 出演・宮田 佳
「僕にとって最大の刺激は宮田佳である。」 勅使川原三郎
この言葉でわかるように、勅使川原三郎の表現にとって宮田佳は重要なポジションを示している。KARASの結成以来、作業を共にし、制作を手が け、音づくりは彼女が中心で行われていると聞く。そのような中で身体表現の可能性を追究し、しっかりと舞台に立っているのは見事な存在である。私は、勅使川原三郎+KARASの表現はここ10年、最も注目しているものの一つである。彼等の時代認識と美意識には触発されるものが多く、見逃さずにはおれない。この日の宮田佳は勅使川原三郎の世界に包まれながらも、彼女自身の私的な表現をナイーブに映し出した作品といえた。
ーーーききとりえない音にうたをきこうとする。
それは二度と現われないかもしれない光りの人との出会いの有様とは
まるで正反対のいつも消えていく後姿のみにしか声をかけられない。
おしのように胸はつんぼで両足はめくら
でもそんな夜
本当にきこえてくるのは
なんでしょう。
無時間的
きめられない夜の身体の位置。時間的盲目。
<当日配布資料より>
この日私は、開場で演劇評論家の西堂行人氏に久しぶりに会うことができ、終演後1時間半ほど演劇の話をした。20年間位の演劇シーンの話を、インターネット上を漂うように話した。つくばの話も、ちゃんと出てきた。ありがたき講義であったし、確かめたいこともできた。重要な話が沢山出た、たぶん、このコラムで確かめていくことになると思う。お知りになりたい方は、まず彼の書物を手に取ることを進める。彼が編集委員をつとめる、パブリックシアターの雑誌<PT>6号を手に取り、座談会「歴史の記述とエンターテインメント」と「松本雄吉」への文(最重要)に目を通されるのもよい。
1999,2,19
今日の空
つくば市民劇団「無限つくばりあん」
つくばカピオ
平成6年度、茨城県の補助事業(一村一文化事業)として3年間行われた、つくば市の市民劇。3年間をかけて昨年「カリロン伊賀七」を上演好評をえる。私の採点は厳しいものがあったが、それでも良しとする。3年間で約1300万と考えると、取りくみについては疑問もあったが、これも役所の限界といえなくもない。今年度は市の単独予算500万を得て市民が中心で 行われたと聞く。通算4年というよりは単年度事業のように見うけられた
のが課題として残ったようだ。それに500万という予算は重いと思う。いい方向に持っていきたいと思うが、3月議会で質問してみよう。
そういう訳でスタッフの大変さは知るものではあるが、作品は作品として評価したい。基本的な劇の存在が違うように思った。アマチュアとかプロの問題ではなく、参加している人が、もっと楽しさを出してほしかつた。美術や照明など良くできているが全体のリズムが取れていないように、関心のもっていき方が違うように思われた。役者の存在をもっと引き出して額縁からはずれる元気さが、私には大切に思われた。このことは現在の演劇シーンにも同じことがいえるが。台本もつくば市に媚びているように思われて、宮崎駿へのオマージュとしても浅く読み取られる。技術的には形
になってきているからこれからの問題ともいえなくもないが、もっと自由度が欲しいものです。
ガンバレつくばりあん。
1999,2,7
堕天の媚薬
ACM劇場
長谷川裕久 作/演出
水戸芸術館
面白くない。物語から物語を追って物語を探すという唐十郎ばりのせりふ劇。唐組から客演で役者が3人入っていることでもわかるように唐十郎の強い影響があるようだ、というより唐十郎をテキストとして、といった方がわかりやすそうだ。ダンテの「神曲」をテキストとして世期末の現在にもの申すといったところだが、手に余るものとなった。言葉遊びのつまらんジョークが多すぎ、演出も平坦で個性的な役者が使いきれていない。作品が必要以上に難解になり、少年やオオムや地震というような現在の象徴的なものがぼけてしまったようだ。もっとわかりやすく作品を捕えストレートに現在にものを言ったらいいのにというのが感想です。長谷川氏の同世代としての演劇が観たいものである。氏の演出では「さんせう太夫」と
「ジョン・シルバー」が好きであるが最近観た太田さんの「死の薔薇」もいただけなかった。確かに『ACM劇場』の存在は多くの人々に勇気を与えるものであり、目が離せない、しかし、その存在に最近どこか驕りが見えてしまうのはなぜだろうか。
1999,1,29
フェードル
テアトル・ヴィディ・ローザンヌ
ラシーヌ作/リュックボンディ演出
銀座セゾン劇場
ココマデキタカという感想ですね。P.ブルックのテンペストを観たときの驚きに近いものがあった。シンプル。何も過剰なものがなく、それでいて見せる見せる。役者の力量がすこぶる良い、古典というのに動きがすくない、存在で見せている。美術は、一場。(なんと、この美術家はハイナー・ミュラーの作品を多く手がけているスゴイ人らしい)下手後ろから上手前にやや八百屋になり背景は海、その前に重量感のあろ壁が下手に空間を作り上手壁にくっつきそうに天井まで伸びている。背景の海は下手に残る空間からと壁上手下に切られた出入り口(ここには仕掛けがしてあり背景の海を見せたり遮ったりする引戸がある)そして上手前から上手後ろに同じく重量感のあろ壁が伸びている壁と壁のわずかの間から見えるのみ。下手には同じく重量感のあろ建物の軒先がのぞき、下手後ろの空間から白砂が舞台やや中央まで湾曲的に伸びている高さは1メートル以上はあると思われる。この砂が幾何学的な空間から海を客席まで運ぶ。役者も砂を踏み、出入りする。もちろん空間は傾いている、強度の緊張感を持ちながら。フェードルは砂の上に横たわり命果てる。
照明も実に簡素で良い。最近よくある煙を炊いたケバイのはもういいんじゃないかと思っていたので気持ちがよかった。役者の顔が見えなくとも空間で見せる。実に良い。 音楽は無いと言ったら叱られますが、効果的ノイズ擬音ということにしましょう。これも良いんです。いやーまいりました言葉もさっぱり解らず観ていたのですが。
最近、海外のものが沢山観れて良い傾向だと思う。もう少しリーズナブルになると嬉しいのだが。
方行性間違えるな日本、国家を開け!とでも言っておきましょう。